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多神教と日本

 

 伊勢神宮を訪れたときの独特の雰囲気

 

それが長年気になっていた

 

神聖な雰囲気

 

そこに何かは存在するんだけれども

 

一方では

 

何もない感覚

 

高野山を訪れた時との明らかな違い

 

 

高野山の方が余程何か詰まっている感じがする

 

 

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日本という国は、中心に『空』を置く

 

それを作家の司馬遼太郎や政治学者の丸山真男教授なら『無』と言い、

 

心理学者の河合隼雄なら『中空構造』

 

解剖学者の養老孟司なら『0』

 

思想家の山本七平なら『真空』と呼んでいる

 

表現は違うが、言っていることは共通している

 

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 一神教の国では中心に統一原理があって、それがすべてを支配する

 

けれども八百万の神のいる日本の神話は違う

 

『古事記』ではアマテラスが中心となって統一原理をもっているわけではない

 

アマテラスとスサノオが拮抗しあっていて、真ん中にツキヨミノミコトがいる

 

そして中心にいるツキヨミノミコトが何か具体的な働きを担っているわけでもない

 

ツキヨミに席は用意されている、しかし実体も機能もない

 

重要なことはわかるが、存在の重要性がいまいちわからない

 

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日本の中心にある『空』の存在は不思議だ

 

中心には空間と地位が用意されている 

 

けれどもそこにはパワーもルールもない

 

あらゆる思想を吸い込んで無力化してしまう

 

中心にある『は、言葉によるルール

 

つまり統一的な原理・原則をもうけない

 

 

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それを社会に適応しているのが天皇制で

合気道なら植芝家

  

この国は中心に血統を置く

 

天皇家も植芝家もそうなっている

 

血統は言葉にしなくて済む、思想がない

 

血統が一番『空』に近づける 

 

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キリスト教圏、ユダヤ人、またイスラム圏なら 

 

中心におさまっているルールやパワーが明確に言語化されている

 

だから中心に存在する絶対的なものと明確に対峙できる

 

つまり、闘う対象が明確になっている

 

だから中心にある何かを変革しようとする時、ターゲットは明確にみえる

 

 

 

一方で、日本という国はダブルスタンダードを設けてバランスを保たせている

 

例えば巨人と阪神があるし、東京と京都、東大と京大、天皇と政府、、

 

しかし絶対的中心がどこにあるのかわからない

  

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この国は中心を明確にせず、なんとなくまとまっている

 

武道の世界でも中心となる師匠に対し、弟子たちは気持ちを汲んで動く

 

けれども中心にいる先生は何かルールを提示したり具体的に考えているわけではない

 

ルールが言葉によって規定されているわけではない

 

周辺の人間が思想を持っているわけでもない

 

彼らは先生の意図を汲んで中心を意識して動く

 

そういう意識化されないルールがあって、弟子達はそれを守る

 

それに逆らって動こうとすると組織を辞めなければならない 

 

だから集団を形成すると日本人は全体的に同じような行動をとる

 

一方でこの国で変革しようとするとき、何と闘えばいいのかわからない

 

太平洋戦争も福島の3.11も誰が中心的な責任を負っているのかわからなかった

 

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この国では中心に確かに統一性を強制するものはある

 

しかしその主体がどこにあるのかわからない

 

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日本は多神教だが中心にあるのは原理主義だ

  

この国の多神教は一筋縄ではいかない

 

そして合気道をやっていると、この国の文化のルーツに触れている感じがする