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自然と親性 : 植芝盛平


植芝盛平は植芝時間で生きている

時代どころか昼も夜もない、エネルギーのある時、動けるときに動く

つまり植芝盛平は体内のリズムで生きている

しかしそれは社会と足並みが揃っていたかというと、そうではない

時代との同期性よりも身体としてのリズム、自然との同期の方が強い
本当のマイペース
しかし、こういう生き方は塩田剛三の時代の東京では許されない

もし塩田剛三が黒澤明監督の映画なら、植芝盛平は手塚治虫の「火の鳥」のスケールを感じる

黒澤明は青年期の人間を描く映画監督で、人間的なスケールで永遠の一瞬を求めた
手塚作品の「火の鳥」はヒトではなく宇宙的スケール、年齢も性別もなく生命の永遠のループを感じさせる

 

植芝盛平 

塩田剛三



植芝盛平の肖像には自然にのみ作り出された重厚感がある
人間で精神基盤をつくった人はこのような宇宙的な雰囲気にはならない

そしてもう言葉じゃない、太古の感覚がある
花鳥風月、森羅万象を感じる

自分以外のものに生かされている、自然に生かされているという感覚を持っている

だからこそ自然の中にいるちっぽけな自分、つまり路傍の石に気づいた 



何かを極めた人の肖像写真に共通するのは、生かされた感覚をもっている雰囲気ですが、二人ともそういう雰囲気があります
でも塩田先生はそれが植芝先生に比べてかなり抑制され、自然への畏怖心が希薄です

そして答えは心の中にあると思っているため、塩田剛三としてのまとまりがいい


二人の違いは都市化された社会で育ったかどうかと、自然に対する意識の違いだと思います 

また植芝先生に戻りますが、40歳頃までの植芝先生の肖像はまだどこか頼りない
そして植芝先生も本来はファザコンだったのではないか、と想像しています

しかし自然の中に身を置くことで悟った

自然とは信じていても裏切る存在だということ

こちらの感情を汲んでくれない一方的な存在

自分とは違う原理で生きている切り離された存在

その認識が自然を畏怖するきっかけとなった


自然に対する畏怖の念によって多様性に気づいた

多様性に気づくと、親と自分は切り離された存在だと認識するようになる

彼は親元から離れ、大自然の中に住んだことで自然の中に父性や母性を求め、発見した

また銃弾のつぶてを避ける経験をして、奇跡的に一命を取り留めたことでも親の知らないことに気づいた
おそらく黄金体験は親を個人としてみるきっかけにもなったと想像します

 

植芝盛平は宗教に依存したが、肝心な部分で一人だった

他力本願で自然に自分を委ねたが、肝心なところで他者には依存しなかった

最後まで自分を信じれた人

植芝盛平の凄さは自分の力を過信しなかったこと、そして自分が目指すべきモデルを自然の中に見出したこと
塩田剛三は自分の父親がモデルだった
塩田剛三という人は精神基盤を父親でつくっているから、ベースを自分でつくった植芝盛平にはかなわない

しかし都市化した現代社会で、人は精神基盤を植芝盛平のように自然でつくったりはできない

だから子供のスケールというものは父親のスケールで決まってしまう
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この二人の違いは時代の要請で、流派や武道の世界といったスケールの枠組みではないと思います
生まれた時代と置かれた環境の違いからだと思います

システム化されていく社会で植芝盛平が生まれる土壌がありません
これからの社会が植芝盛平の方向性を必要としていないこと
この二人の間にある個性の違いは日本に限らず、20世紀全体の世界で起きていると思います