日本人の信仰

 

  コロナの影響により、今後リモートコミュニケーションの機会が増えて、社会の情報化が進んでいきます。そのため説明すること、言語化の需要が増していきます

 

一方で、文化を国外に輸出するときは誤解も生じやすくなる

 

それぞれの文化が持っている無意識のルール、というのが言語化されないためです。そのズレから文化間の軋轢は生じやすいので、本来はそこから話を始めないといけない。するとどうしても宗教に切り込まざるを得なくなります

 

まず、信仰というのは無意識のことで、個人が根拠なく信じることをいいます。それを意識化したものが宗教もしくは思想です。だとすると神道は宗教とはいえません。少なくともキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などの宗教とは性質が違う。神道は教義、教典、教祖もいないし、布教活動もありません

 

ここで神道が何を言いたいかというと、個人の信仰を意識化するな、ということだと思います。個人的信仰を言語化するな、と言い換えてもいい。けれども、信仰を宗教にするには言葉にかえる必要がある。言葉にしないと情報化できないし、情報化しなければ人に伝えられない。布教を前提とした宗教というのはそうですね

 

でも神道は違う。信仰を理屈にしない。日本人が個人の信仰を意識化しないようにブレーキをかける役割を持っている。言語化されたものは宗教もしくは思想になってしまう。このお陰で日本社会は特定の宗教や思想に偏らないようになっている。だからこの神道のやってることは宗教じゃなくて、逆に宗教に対する免疫の働きに近い

 

そして、日本人のカルチャーショックの説明や海外の体験記は、一言でいえば多くが、”国外には世間がない、人の眼がないよ”ってことを言っています

 

我々日本人にとって本当の信仰の対象は世間、つまり人の眼です。だけどこれを信仰の対象として我々は認識していない。日本が文化を国外に輸出するときに伝えないといけないのはこのことだと思います。ここから外国人と話を始めないと結局は行き詰まる

 

神道が外来宗教に対しての防波堤となって、世間という信仰を守っている。世間は人の眼、我々にとっての現実ですから、もし特定の宗教や思想に取り込まれると世間がなくなってしまう。神道の思想は世間という信仰を下支えしています

 

神道思想は、共同体において個人の信仰を思想化したり言語化することをタブーとしているため、世間という信仰は守られている。だから日本にやってくる外来からの思想や宗教は、儒教や仏教を含めて日本の世間に合うように変質していった

 

個人の信仰を言語化すると日本社会では信用されない。信仰を意識化しないように肉体に叩き込む、「言葉じゃないよ」と言っている。理屈は許されない、それが神道の唯一のルールだと思います。だから日本思想は内容ではなくて形式を重んじます

 

ではなぜ形を重んじるかというと、形に思想はないから。形は何も語らない、言葉にしなくて済む。けれども形は動かしがたく、そして眼に見える。だから現実だと信じやすい

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形式というのは、例えば『道』や『型』のことです。所作つまり身体技法が『道』で、日常の立ち居振る舞いが『型』になります。技術である『道』が表現として完成すると『型』になる。『禅』も形です。また、『美しさ』も形式の一つになります

 

『美しさ』は個人の美意識によってつくられます。でも美意識は本人の信仰で、根拠がありません、しかしそれはその人の行動を決定します。日本人が美意識を大事にする理由は、言葉を用いないで個人の倫理観に結びつけられるからです。宗教と同じ働きをする。つまり、人間の行動を制約できる

 

この国では言葉は説得力を持たない、身体が言葉になる。自分の信仰や思想を言葉にした瞬間に誰も話を聞かなくなる、それが日本文化

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