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ピカソと写真

 

ピカソには面白いエピソードがあります

ピカソが電車に乗っているとき、隣り合わせた乗客の男性が「あなたの絵がわかりません」

そこでピカソが「どういう風に描いたらいいんですか?」と訊いた

「こういう風に描いていただけませんか」
とこの男性は言ってピカソに自分の妻の写真を見せた

 

ピカソはこう答えたという
「あなたの奥さんは、ずいぶん小さくてペラペラしてるんですね」


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ピカソの言いたかった事は


写真そのものは奥さんではない、紙ですよ

あなたは紙を見て、そこに奥さんがいる現実感をもっているだけでしょう


こういうことだろうと思います

 

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このエピソードは江戸時代の踏み絵を思い出させます

キリシタンでなければ、マリア像が描かれている板は単なる木の板にしか見えない

でも信じている人にとっては木の板に見えない

 

特定の人の肖像写真もそうだし、刀や道具に対する人の思い入れもそうだと思います

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人間はモノを見たときに機能でみる傾向があります

つまり
モノそのものではなくて、モノにくっついている性質でみてしまう

でもピカソは機能でモノをみていなかった


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ここで少し寄り道をします

 

人工物と自然物について

 

人工物は「人間に意図されて設計されたもの」

 

自然物とは「意図的に人間が設計していないもの」

 


そして人工物は名称が用途によって変わります

しかし自然物というのは実物が変わらない以上、名称は変わらない


例えば、植物も動物も自然物なので外見が同じ実物なら名称は変わりません

一方の人工物である場合、木刀を稽古中に使えば木刀だが、人を殴れば凶器になり、燃料として使えば木材になる

 


ここでピカソの話に戻ると、この乗客の男性はこの写真を紙ではなく「奥さん」としてみた

 

つまり写真という機能で見ていました

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この話で連想するのが脳死問題です
臓器移植のために死後の人権について問題になりました

そこで『人は死んだらモノなのか?』ということが争点になりました

 

しかしこの質問自体、人間の身体を機能で見ることを前提にしています


論争する人同士がモノをみるとき機能で見ているから、ここが争点になってしまう


しかしそもそも人の身体は自然物なので、生きていても死んでいても名称は変わらない

死んだらヒトの身体は人工物になりません

 

そして人の身体を機能として観るからこそ、『意識』のあるなしが人の生死を判断する上で重要な要素になります
 


解剖学者の養老孟司さんは生死に関する根本的な問題について日本人の身体観の歴史のなかで、

「自然物である人間の身体を、まるで人工物を扱うように機能としてみることから誤解が始まっている」

という趣旨のことを、おっしゃっています。
 

つまり人間の身体は人工物ではないのに、コントロールできるものだという錯覚をもっている

 

 

そして養老先生は、脳死問題に限らず現代社会が機能論でモノをみることそのものに警鐘を鳴らしています

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ここで再びピカソの話に戻ります

そこに奥さんがいないのに、写真を見て奥さんを感じる



それってReligiousですよね


ピカソは自然物であれ人工物であれ、
物を「実体」として視ています

観念ではみていない


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機能でモノを観るというのは、ひとつの思想、もしくは信仰ではないでしょうか



けれども社会ではそれが常識化しているため
国の法律、脳死問題にまでこの観念が食い込んでいる

見ている本人がそこに現実感をもってしまっているために




だからピカソのこのエピソードは、人間のもっている現実感というものについて大きな示唆を与えてくれます