「型」なしのシアトルのホームレス

 

今回のトピックは、「江戸の影響下で今の日本は存在する」という話です

 

要約すると

 

封建社会の感覚は日本人の中でまだ生きてます

そしてそのことを私はマイナスだとは思っていません

「封建的」というのは日本で一般的にあまり良い意味に使われてませんが、良い面を見直してみませんか

 

という話をしてみました

 

お金は好きですが今回、福沢諭吉さんとは少し逆のことを言おうと思っています

 

また、武道の『型』の重要性についても述べました

私は合気道という武道をやっていますが、『型』があるためにとても助かっています

 

わかりやすく書きましたので、ご興味があったらどうぞ

 

 

ここで話は突然、アメリカに飛びます。

ひと昔以上前ですが歴史的にはつい最近です

 

私がシアトルに住んでいた頃、マリナーズにイチロー選手が在籍していました、そんな頃です

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   『無心するホームレス

 

当時、シアトルではあちこちにホームレスを見かけました。街を歩いていると、毎日彼らに声をかけられました

立ち止まると声をかけられられ、タバコや現金がないか訊かれるので、足早に街中を突っ切るように歩いてました

 

(アメリカではタバコが一箱9ドルくらいはしたので、タバコを吸っていたり箱を持ち歩いていると「一本くれないか?」と必ず誰か訊いてきます)

 

 

ようやくホームレス達が密集するエリアを抜けたところでした。

その時、向こうからホームレス風ではない男性が近づいてきました。そして彼は自分に手をかざし大きくハイタッチしてきました

 

自分も思わず片手を挙げ、相手と合わせハイタッチしたんですが、そのあと「ギブミーマネー!」と笑顔で言われました。私は呆れて通り過ぎました。

 

またそのあと喫茶店に入るところを、近くで待ちかまえていた他のホームレスの男性に捕まり、

「ギブミーマネー、ただし2ドルからにしてくれないか?」と(笑)

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日常的にシアトルで会っていたホームレス達は、日本で見てきたホームレスと大きく違ってました

 

日本では、笑顔で握手をしてきて金銭を無心するホームレス、というのは経験したことはなかったし金額指定されたこともなかった ...笑)

 

 『日本の封建制度の身分保証

 

これはなんだろうか、日本のホームレス達はこんなに堂々と生きていない

人と関わる時、もうちょっと考えて相手に話しかけている

 

見られる自分をもっと意識して生きてる

自分の社会的立場を考えている

 

不思議だと思いました

 

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まず言葉の違いがあります

英語の主語は「I」だけですが、日本語の「I」はたくさんあります

 

 日本語の主語は使い方ひとつで立場が決まります

 

「ワタシ、ワタクシ、自分、己、俺、、」

 

それから日本語には「敬語の体系」があり、主語だけでなく敬語を使うときにも、そこに社会的な立場が含まれていて、相手と自分の立ち位置を常に意識せざるを得ない

 

難しくいうと、日本という国にはまだまだ江戸時代からの封建制度による身分保証がある

  

 おそらく封建制度というのは、身分や職業を振り分けて他人が見る自分を保証してくれていた

 

その制度のおかげで、江戸時代は身分にあった振る舞いをすれば良かった

自分が誰かなんて説明する必要なんてなかった。どう扱われるかは他人が決めた

(以前、「Diane Arbus (1923-1971)」で関連したことを話したことがあります)

 

今は名刺が必要です

 

 

『封建制度の経験がない社会』

 

 しかしアメリカ社会は歴史的に封建制度を経験してないので、アメリカ人はそんなことを考えない。おまけに英語には敬語がない。

 

そういう社会にいるから、彼らは「人から見られる自分」をなんにも意識しなくてもいい。

 

アメリカ社会は伝統的に「ホームレスの立場や振る舞い方」のイメージを国民同士がシェアしていない

だから彼らは日本のホームレスの様に人前で「ホームレスという役を演じ」なくていい

 

平気で屈託なく生きている。これはアメリカだけではなく東南アジア圏でも同じような印象を感じました。

 

  『ヨーロッパ人とアメリカ人』 

 

一般的に私がアメリカ人かヨーロッパ人か見分ける時は、相手の「眼」を見ます

 

アメリカは歴史が短いですから、日本ほどに文化的矛盾や身分的な縛りがなく屈託ない。ですから、たいていアメリカ人の眼つきはガラス玉のようにシンプルですっきりしている。

 

一方で一般的なヨーロッパ人は全体的に眼に奥行きがある。西洋社会は歴史的に長いため、累積された文化的な拘束や不合理な慣習が多い

 

そういうわけか、彼らの眼の雰囲気はアメリカ人ほどシンプルではありません。アメリカ人と比べると眼に透明感がなく、それほど顔立ちもペロンとしてない

 

言うまでもないですが、こういう歴史的な点で日本人はヨーロッパ人に近い

 

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あとアメリカでは大学の先生でも両脚を組んで、そのまま靴を机の上に乗せたりします。

 

それはアメリカ社会は日本社会と違い、歴史的に『型』による身体の取り扱い方の伝統がないからじゃないでしょうか

 

靴で机の上を歩いたり、脚を組んで机に乗せていたらヨーロッパ人でなくて、まずアメリカ人だと思います 笑)。何も知らない日本人から見たら「行儀が悪い」と思うかもしれません

 

封建制度の影響』 

 

 封建制度はなくなりましたが、現在の日本に眼を向ければ影響がまだある気がします

ただそれらは悪い面ばかりとは思っていません

 しかし帰国した時は適応するのが正直めんどくさかった記憶はあります、、(笑)

 

 そして一方で、この国の封建的伝統は途絶えつつもあります。先ほども申し上げましたが、その典型が身体表現による『型』だと思います

 

 

封建制度にあった 

 

 福沢諭吉が『門閥制度は親の仇』と言って、日本社会は明治維新後に封建制度を徹底的に潰していきました。

その中には『型』も含まれていた

 

では福沢諭吉の言うように封建制度は社会制度としてのみ機能していたのか?

 

私はそうは思ってないんですね

 

そうではなくて、日常のコミュニケーション表現としても機能していたんではないだろうか

『型』は「身体による共通言語」ではなかったのか

 

言語表現』と 『身体表現

 

幕末に勝海舟と西郷隆盛が会談したという話があります

そこでお互いの人となりを見た

当時はテレビもラジオもない、地方自治で関所があり、移動の制限もあった。

言葉は標準化されておらず、人の流動は少ない、だから方言は強くあったと思います。そんな中、薩摩士族と江戸っ子の二人が言語表現だけで、果たして相手とコミュニケーションをとったのか?

 

そこには「身体表現」という『型』もコミュニケーション表現として使われていたんじゃないだろうか

 

文化遺産

 

明治維新で「文明開花」と言われてますが、日本は江戸時代において実証主義、そして合理主義思想もあり非常に高度な文明だった。また身分制度にある『型』によって集団を統制する方法も持っていた。

 

 

『温故知新』

 

合気道を稽古してるといつも新しさを感じます

 

師匠の安藤師範は、合気道の腰の動きは昔の日本では日常の生活の中にあったと話されます

 

そうすると今、江戸時代からのせっかく築き上げた身体表現としての『型』、そして『身体の動かし方』がどんどん途絶えてきてるんじゃないだろうか

 

福沢諭吉は居合の達人で免許皆伝だったといいますから『型』の重要性については知っていたと思います

 

 『型』とは明治期ではまだ当たり前の、日常の無意識レベルの所作だった

しかし、まさか日本文化から『型の喪失』が起きていくとは彼も思っていなかったと思います

 

自分は令和が新しくて昭和や明治が古いとは全く思っていません

ましてや江戸時代には現在失われた叡智が多くあったんじゃないかと想像しています

 


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